−トピックス6 後世(グソー)への道程−


 大小無数の亀甲墓(かめこうばか)が割拠する墓地は壮大な終劇(エピローグ)だった。
亀甲墓と与那国馬
 押し寄せる潮騒は死者を悲しむ号泣で、薄汚れた白地の旗はばたばた風にはためいて鎮魂歌となり、耳朶に触れる虫の音が哀惜をかきたてる。風雨にさらされてすっかり黒ずんだ珊瑚の墓石が、大地に還るはかない人の亡骸の護壁をなしている。だからこそ墓地に繋がれた与那国馬が嘶(いなな)くことはない。

 その昔、与那国の葬制は棺を崖際に置く風葬だった。処々の崖地には今でも人骨が転がっている。それから珊瑚を積んだ石積墓となり、明治以後はもっぱら亀甲墓を築いた。島人は村はずれで後世との境界となる海辺を墓地に選んだ。特に祖納から海沿いに東崎へ向かう道すがらの浦野墓地は見渡す限り亀甲墓がひしめき寂寥なる大劇場である。

 亀甲墓は亀の背のごとく盛り上がった墓室と塀で囲み家族が法要で営む中庭から構成される。中庭は女性が股を広げたあられもない姿に、死者を葬る墓室を子宮に見立てる。つまり人は母の胎内に生まれ、またそこへ還っていくのだ。

 浦野墓地には珊瑚礁の丘を穿った要塞型、ブロックを積みコンクリートで塗り固めた堡塁型といかにも伝統を遵守する亀甲墓だけではない。ぽんと石棺を置いた墓。中庭に庇を設けて柱が支える墓。内地に似せて「○○家之墓」と刻んだ石碑を墓室の上に立てた塔式墓。家人の好みと財力に応じて造営された墓のサイズとフォルムはバリエーションに富み、ひとつとて同じ墓はない。もっとも過疎化で家人が島を離れ、草はのび香炉は倒れて荒れるにまかせた墓もあった。

 冬の浦野墓地はひどく陰鬱だった。空は灰色の重い緞帳がかかったままで、岩礁の海岸線でエアスポットの四畳半ビーチは漂着したゴミだらけ。高波で打ち上げられた雑多なゴミが亀甲墓の路地をなす草間にまでびっしり頒布して、死の壮観に哀愁を誘っている。ゴミのラベルを眺めれば、台湾の繁体字や中国の簡体字ばかりでなく、英語のフィリピン、丸文字のタイやマレーシアからの流れ着いたものも有り、たやすく生を奪う海という異界で彷徨する亡者の魂が安住の島を求めていた。

 冷風に鳥肌を立てて亀甲墓の群れを巡っていると、墓室の外面をモルタルできれいに仕上げ終えた造営中の亀甲墓があった。

 亀甲墓は風水(フンチ)を採って造る。まず風水に詳しい巫女(ノロ)が暦を判断して着工に好ましい吉日を選んでもらう。造る年によって変わる凶の方角を避ける。唐定規(カラドゥンギ)の吉凶尺で良い寸法を測ってこしらえる。もっとも私が拝見した時には、墓室内部にモルタルを塗れば完成するところで、風水めいたものは表層に現れていなかった。

 完成一歩手前の亀甲墓の前庭は塀さえなければ、駐車場になるスペースを有する他の墓と見劣りしない規模だった。墓の規模にもよるが目前の墓程度なら工事期間は10日前後を要するそうで、さて工費はいくらだろう。煙草を片手に一服する作業員にこっそり耳打ちしてもらうと、新車のファミリーカーを購入できる金額だった。これを高いと見るか安いと見るかは施主次第。国有地の海岸線に建設して上物の工事費しか要していないから、ビルとマンションの狭間で猫の額しかない墓地一画に永代供養料と称してべらぼうな金額を請求する都会の寺院と比べれば、面積からして割安だ。

 与那国には火葬場がない。死者が出たら遺体が腐敗する前に速やかに葬儀を執り行って棺を墓に納めた。三回忌以降、または一家に不幸があり新たな棺を納墓する際に、墓口を開いて洗骨(フチギライ)を行った。遺骨にこびりついた腐肉を花酒できれいに拭き取り、足の骨から順順に最後は頭骨を丁寧に骨壷に改葬した。

 現在、病院がない与那国では危篤患者をヘリコプターで石垣へ搬送する。伝統に従って野辺送りの棺を亀甲墓に入れようと遺体を航空機で与那国島に輸送しようにも、貨物扱いの遺体は空調が効かず氷点下に冷え込む貨物室で運ぶしかない。それならばと、不幸にして石垣や那覇の病院で亡くなった肉親を火葬にして小さな骨壷で帰島する。風葬は旧習である。

 また与那国には僧侶も葬祭業者もいない。ご不幸があった葬家は準備から何もかも葬儀を主宰しなければならない。島人はどこかで血の繋がった遠い親戚で、葬式には全八百世帯は大げさにしても二百三百人は弔問する。

 ただでさえ哀しみで胸が塞がりながらも死者が後世へ旅立てるよう葬送儀礼を滞りなく執り行う家人が、大勢の弔問客の料理と香典返しを準備するのは容易な事ではない。準備には大人数の人手を要する。だからヘリコプターのプロペラが轟けば、具志堅(仮名)のおじいがそろそろお迎えと聞いていたから明日あたりに葬式か、と空を見上げる。そしておしゃべり好きな島人ネットワークで、辻々に訃報の告知文が貼られる前に、葬儀の聞きつけた親戚や親しい知人は多忙なきび刈り期間中であっても作業服のままお手伝いに駆けつける。町議会開催中でも告別式にあたる出棺があれば、午後の議会を休会にして夕方から開会するほど地域共同体の紐帯が頑強である。

 まず喪家の前の道路にテントを張る。学校給食に使用できる子豚をそのまま煮込めるほどの大鍋を用意する。弔問客へのもてなしに篤いだけでなく家勢を誇示せんと、屠殺場があった頃葬家は牛を一頭つぶした。現在石垣から運び入れた大量の肉を、私の目測では牛一頭分の肉塊を、ぐつぐつと大鍋で煮て、これを切り分け、野辺送りに来ていただいた参列者に渡す。しかも故人への供物も手作りだから、与那国の葬式はやたらと手間がかかるものなのだ。

 さて民俗学の調査報告書によれば、畳の上で島人が亡くなった頃の葬儀の流れは次のとおり。

 ご臨終を迎えると喪主である長男が故人の名を呼び続けるクイカギを行って故人の霊に死を悟らせる。家屋北側の二段裏座で湯灌(ゆかん)を行い、南側の一番座に遺体を移す。西枕の故人に死装束を着付けし、後世に到着するまで渇いた喉を潤す水と交換できるように三本の針を襟元に刺しておく。後世の名簿あわせで故人を証明する爪を入れた爪袋を手首に巻きつける。枕机には白木の位牌ばかりか、香炉、お茶、水、生米、ご馳走のウサイを置く。これと同じ祭壇を仏壇の前に置き、四十九日の法要が終わるまで朝昼晩の3回、ごはんと一汁一菜を供える。お通夜のドゥツトゥクミでは独特の節がついた悼歌や故人が好んだ音楽テープが流れる。

 出棺当日は目覚めるとクイガキと挽歌を納棺まで続ける。家全体が喪に服した証しに、仏壇の位牌立てや室内の額縁には白帯を斜めに貼る。朝は故人に7回料理を捧げる。お昼に再び料理を供え、弔問客と手伝い人全員に大鍋で煮た肉と泡盛をふるまって旅立ちの御酒として末尾を飾る故人との会食を摂る。そして午後5時に出棺を迎える。

 他島者(よそもの)にして見れば、後世に旅立つ死者を送る葬儀にも、随分と繁雑な作法があるものだと思わずにいられない。遺骨での帰島する現下では葬儀がどう変化したか取材したいが、肉親を亡くした悲涙に咽ぶ家人の前でフラッシュを焚くのは礼を逸する。私は出棺から墓地までの葬列に同行させてもらった。

 きび畑から哀しみにくれる祖納のN家に到着したのは出棺20分前で、北風が灰色の単彩しかない雲を押し流す空も故人を悼んで今にも泣き出しそうだった。葬家の付近に待ちわびる会葬者はウインドブレーカーをまとい、雨合羽のまま直行した私は目立たない。むしろ奇観じみているのは、弔花の代わりに会葬者がそれぞれの肩に立てかける弔旗。葬祭業者に全ての段取りを任せる内地の葬式しか知らない私には、故人の往生を弔う幟旗が群れるのは、いかにも古習が残る与那国らしかった。

 にわかに喪家が慌しくなった。喪服の家人たちがお通夜を行った一番座の前の庭に用意した朱塗りの龕(がん)に集まった。いよいよ出棺だった。

 ご遺骨を龕に納めた瞬間、泣き女のアタカンが発する哀悼の慟哭が黄昏を裂いた。

 中国を代表する大女優コン・リー主演の『菊豆チュイトウ』という中国映画がある。おそらく日中戦争前夜の1930年代、金で買われたコン・リー演じるうら若き小姐(むすめ)菊豆が染物屋の老主人の妻になる。子どもができないのを菊豆のせいにして老主人は暴力をふるう。同じく老主人に酷使される甥は菊豆と不倫に陥って子どもが生まれてしまう。老主人が我が子の誕生を喜びのも束の間急逝する。葬儀にあたり喪主の菊豆は甥と不義の関係ではないかと疑う村人は、哀悼を示せと葬儀で二人に泣き役を命じる。

 老主人の棺が村はずれの橋にさしかかると、白衣をまとった菊豆と甥が駆け寄り、「あなたー、なんで死んでしまったの」と棺に取りすがって落涙する。踵を返して、また棺に疾走して、「お願い生き返ってー!」と哀哭する。取り乱す様は肉親を失った哀しみそのもので演技には思えなかったが…。

 与那国の泣き女は『菊豆』のように髪をかき乱さない。後世の旅立つ故人に捧げる挽歌であった。この哀切な唄声で合図にして出棺の行列は動き出した。

「こんなのは与那国にしかないぞ。写真を撮っとけ」
野辺送り
 風に逆らって葬列の先頭をゆく老島人が言った。できあいの内地の葬式しか知らない私にとって、それは異形の行列だった。

 先頭は露払いに矛をかたどった灯籠旗。四旗それぞれに「仏諸行無常」等の仏語の記した四流旗の四つ旗。謹弔、哀惜、冥福と白地に墨字が奔放に踊る弔旗を天にかざして、雑言なく路地を進む。80歳以上で長寿をまっとうした往生ならば、赤・青・黄・緑の弔旗も含まれるが、還暦を前にして亡くなった故人には白旗しかない。

 これより葬列は近親者が連なる。黒い喪服の一行は白頭巾をかぶり、あるいは白タオルを巻いて、黒と白のコントラストが人ひとりを喪った哀色を浮き立たせる。『菊豆』の泣き女が白装束をまとうように中国の喪服は白。さすがは台湾に近い与那国、中国の影響は濃厚で喪色の白を用いていると短絡的に思ってしまう。だが切腹に白装束を着衣する作法を鑑みれば、日本原来の喪色は白である。与那国の黒と白の併用は日本古式の遵守なのだ。

 女性が生花を、子どもたちが金・銀・白それぞれの紙でこしらえた造花を運ぶ。きらめかしい花は全て手作りで葬儀の準備に要する手間はなみひととおりでない。それから男性近親者が続き、喪主が二番座に掲げた位牌を机ごとささげ持つ。添え人が位牌を濡さぬよう、晴れた日ならば焼けぬよう黒傘をさして寄り添う。これを基点に苧麻(ちょま)ブゥーで織った白の長い道幕マァグティマシが肉親者の両脇を挟む。続いて金色の龍頭に吊るした天蓋のティガラカガン。そして若者が八人がかりで葬列の中心たる龕を担ぐ。龕は沖縄本島や他島では20年30年前までは使用され、今は博物館で展示される代物だが、与那国ではいまだ現役。龕に寄り添う泣き女の唄が「かでぃなてぃ」の悲壮なしらべをかきたてる。

黒と白、沈黙と哀号の交差


あはりーどぉー

エー、エー、エー

あはーりー

あはりーどぉー あはりーど!

 しかし唄は北風にとぎれてよく聞き取れなかった。

 魔の侵入を防ぐ白の道幕が後尾の女性近親者まで覆う。次いで葬列は男性、次いで女性の参列者と続く。泣き女の哀哭の他に人声を発しない寡黙が鎮魂の作法だった。

 しずしずとした足取りで祖納の集落を抜けると、北風が吹きさらす浦野墓地に入った。岩礁にぶち当たる荒波が潮を白い潮を飛沫させている。横殴りの風が息つぐのに応じて泣き女の調子も高低が揺れる。100メートルは越える葬列はまさに野辺送りそのもので、近眼の私が遠目をこらせばはためく弔旗は源氏の白旗のようでもあった。

 偶然にもN家の墓は先日造営していた亀甲墓だった。

 四流旗を墓の四隅に、弔旗が周囲を包み立てる。紅白の帯を龕から解き、遺骨を取り出して墓に納めるうちに、四方の板がはずされて龕は手際よく解体されていく。墓前で横一列に悲色を並べた遺族の代表者が、「線香の準備ができましたので、合掌をお願いします」と述べて、全員が膝を曲げて座して合掌し故人の冥福を祈った。風音が無常だった。横流しの弔旗が後世への旅立ちを拍手してやまない。

 遺族代表者が挨拶を終えると、白タオル、牛肉の切り身と腸の中身の会葬品が配られ、別れの盃が参列者にふるまわれた。よそ者の私が飲んでいいものかと躊躇したが、無下に断るのはヤボだった。たまたま横に居合わせた久部良公民館長の玉城孝さんによれば、この別れの盃はニディントゥという特別の時に使用する自家製の泡盛で、いざ口に含むと、ほんわり甘く風味が舌の上で踊り、マチリのY家の祝宴でいただいた秘蔵酒の味だった。

 これを受けた参列者から三々五々と家路に着き、辻々に姿を消していく。

「与那国には葬式のように他島(ほか)でなくなった文化(もの)が残っている。これを島おこしに使いたいのだがね……」

 帰路を同じくした玉城さんは島を愛する者として言った。

 確かに葬式ひとつとっても、喪色の白しかり、龕しかり、死者儀礼そのものが、他所で近代化都会化していく課程で消滅した古習が与那国の生の文化として生きている。葬儀は見世物的観光に好ましくない。例えば弔事の対極に位置する慶事の与那国式結婚式を―日本最西端の島で人生最良の結婚式を挙げませんか―と謳い、与那国ならでは古式伝統を遵守しながらも今風にアレンジして展開させれば新しい観光資源になる可能性を秘めている。

1月27日 日記へ